30周年記念学習講座 シリーズ1

2004年5月20日・27日の2回にわたって「日本の中の在住外国人を再認識~旧植民地出身者ルーツプラス在住外国人そして多民族共生をめざして~」と題した学習講座を開催しました。1回目は旧植民地出身者の排除の歴史を龍谷大学の田中宏さんに、2回目は戦後の在日朝鮮人運動について関西大学の梁永厚さんを講師に招いて学習しました。ここでは第1回の内容をご紹介します。

 

旧植民地出身者の排除の歴史

講師:田中宏さん(龍谷大学教授)


■占領下での諸相

 ポツダム宣言を日本が受諾したことによって戦争が終わり、植民地出身者も解放されました。ポツダム宣言第8項に、「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく…」と明記されており、カイロ宣言には「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする…」と書かれています。日本の朝鮮における植民地の歴史を考える時の原点ではないかと思います。このことを戦後きちんと実行してきたのかどうなのか。

 占領下においておきた変化のひとつに参政権の停止('45.12)があります。'45年8月までは、内地に住んでいた植民地の人々は選挙権がありました。ところが、194512月の法改正で、「戸籍法の適用を受けざる者」は、参政権を停止するとなり、戦後最初の総選挙('46.)から朝鮮人は選挙ができなくなります。

 次に外国人登録。戦後在日の人たちがどういう法的地位になるかということですが、47年5月に作られた外国人登録令によって、外国人登録の義務が生じます。この法律の適用においては外国人と“みなす”とされます。選挙はできない、外国人登録はさせられる、こうなると日本人と違うのではないかと思われます。ところが、民族教育はこの逆です。在日朝鮮人の就学義務について、日本人と同じように日本の学校への就学義務を負っていると48年1月に文部省(当時)が見解を出します。当時あちこちにできていた民族学校をつぶしていきます。前の二つは日本人と違い、教育のところだけ日本人です。要は日本政府に都合の良いようにやったということです。

 それからもうひとつは、占領当局(GHQ)が日本側に様々な占領改革をつきつけてきます。その中に「雇用政策に関する総司令部覚書」があります。それによると、いかなる労働者に対しても、国籍、信条又は社会的地位を理由として差別待遇を行ってはならない、ということが明記されています。日本は国籍による差別をやっているが、これを全部やめなさいという指令です。

 それを受けて、46年1月、厚生省(当時)が「労務者の就職及び従業に関する件」という省令を出し、その第1条に国籍による差別的取扱を禁ずることが明記されます。さらに3条には、1条に違反すると罰金をとるとされています。それを受けて正式な法律となったのが労働基準法、職業安定法です。今も使われているものです。日本にある法律で国籍による差別をはっきり禁止したものは非常にめずらしく、それがこの2つの法律です。しかし、戦後在日が就職差別を受けなっかったということはなく、ほとんど絵にかいた餅に終わっています。

 それから、46年1月に厚生年金保険法が改正されます。これもGHQの指令に基づき国籍要件をはずしました。言い換えれば、戦前までは国籍条項があったということです。同時に船員保険法の国籍条項も削除されます。GHQは、この国は国籍による差別がよほど好きな国だから、やめさせなければいけないとやってきたことと思います。

 もうひとつ、占領改革で重要だったのが憲法改正です。GHQは、ここにも外国人差別の禁止をもりこもうとします。すべての自然人は法の前に平等であり、“出身国”により差別されない(13)、外国人は法の平等な保護を受ける(16)と規定したマッカーサー憲法草案('46..13)を日本側に示し、GHQとのやりとりを経て、ひとまず「凡ての自然人は其の日本国民たると否とを問わず法律の下に平等にして、人種、信条、性別、社会上の身分若は門閥又は国籍に依り…()…差別せらるることなし。」と13条と16条を一本化するわけです。しかし、結局11月3日に公布された憲法には、第14条の法の下の平等の中に、“国籍”による規定は盛り込まれず、主語はすべて国民となりました。

 憲法は「国民」を多用しています。国民は誰か、そこに外国人は含まれるのか非常に曖昧です。

 国民というと、日本国籍を持つ人だから外国人をはずすという考え方があります。そういう意識は、法律の世界とか、行政の世界では、外国人に対して非常に排他的になることが多い。


■自国中心主義

 いかに日本国民にこだわってきたかを表すものがいくつかあります。占領初期の1946年につくられた生活保護法の目的には「生活の保護を要する状態にある者の生活を…」と、者と書いてあります。ところが1950年に作られた今の生活保護法は、「国が生活に困窮するすべての国民…」とあります。この国民というのが怖い。国民であるから、生活保護は外国人には権利がないということになっています。日本人には決定(却下など)に対して異議を申し立てる権利がありますが、外国人にはありません。今でもそうです。

 1952年にGHQが居なくなり、日本は怖いものがなくなります。1954年、公営住宅に外国人が入居できるかどうかを姫路市長が建設省(当時)に問い合わせた先例があります。それに対して建設省は、「国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とする…」と、公営住宅法第1条にある「国民」をタテに、外国人は入居資格がないという見解をだします。

 社会保障政策は憲法25条を根拠にしていると言われます。そこには「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあり、母子家庭に児童扶養手当を出すとか、低所得者に低家賃の住宅を造るとか、全部25条の実現です。

 ところが憲法30条には「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」とあります。この時の国民は日本国籍を持つ人ではありません。税金に関する法律は、絶対国民を使いません。何を使うかというと、所得税法5条には「居住者は、この法律により、所得税を納める義務がある…」とあります。税金をとる時の主語は絶対国民を使いません。税金は平等に無差別にとりながら、使うときは、日本国籍じゃないから児童手当は出しません、公営住宅に入れません、ということをずっとやってきました。まさに排除の歴史です。

 1952年4月27日までGHQがいましたが、戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)は4月30日に公布されます。つまり、GHQがいなくなって二日後にできた法律です。GHQがいなくなり怖いものがなくなった日本は、この援護法や今日の外国人無年金問題のもとになった国民年金法。児童扶養手当法。特別児童扶養手当法。児童手当の3法などの社会保障関連の法律から外国人を排除していきます。

 しかも当時、国籍条項を設けて外国人を排除することについては、“挙国一致”だったのです。一番新しい法律の児童手当法について調べて見ました。衆議院、参議院の審議録を見てみても、外国人に児童手当をださないのはおかしいじゃないか、外国人も税金払っているだろ、という質問をした議員は一人もいません。新聞の社説でおかしいといったところもありません。学者で文句いった人もいません。挙国一致なんです。これはやっぱりかなり深刻ですね。


■外圧による変化

 何で変わったのか。黒船しか頼りになりません。つまり国際人権規約、難民条約への加入です。なぜこの条約に日本が加盟することになったのか。一言でいえば、インドシナ難民、ベトナム難民の発生です。誰も難民が出ることは予想しなかったかと思います。偶然でしょうが、難民が流出した1975年に先進7ヶ国首脳会議(サミット)が発足します。アジアからは日本だけです。難民の救済をどうするかが、そこで話題になるわけです。その頃日本はだんだん金持ちで豊かな国になっていたので、口が裂けても難民に社会保障を与えるほどのお金が無いということは言えませんでした。結局、人権規約とか難民条約に入らざるを得ないわけです。当時、フランス『ル・モンド』紙やイギリス『ガーディアン』紙では、日本における難民政策は、制度的な朝鮮人差別の問題にメスが入らない限り、改善を期待することはできないと指摘をしました。難民の住まいはどうするのか、公営住宅に入れようと思っても公営住宅はさきほどの建設省の通達でダメです。子どもの児童手当の問題もあります。みんなダメなんです。結局、日本の政策を全面的にやり直すしかなくなりました。

 条約への加入を機に変化します。難民条約の前の国際人権規約への加入によって、公営住宅のように、法律には明記されていませんが、運用上外国人を排除していた国籍による差別がなくなります。難民条約の加入で、国民年金や児童手当3法など法律改正され、外国人も対象になるわけです。

 1997年に成立した介護保険法。この時にはじめて制度をつくる当初から内外人平等の法律ができました。やっとです。ですから20世紀もおわり頃に、だいぶ学習ができて少し変わってきたかなということです。日韓条約ではなく、難民条約で変わったというのは何とも皮肉なことです。